26 posts tagged “日常の出来事”
えー、みなさまお気づきだと思いますが、ブログのサービスを乗り換えいたしました。
今までのものと違って、このVOXという舶来(米国発)のサービスに参加(無料)していただいている方でない限り、みなさまからコメントをいただけなくなってしまったわけですが、最近、私が酷使愛用しているフィンランド製携帯電話「Nokia E90 Communicator」で、いつでもどこでも簡単に記事をアップできる利便性を優先して、変更と相成ったわけでございます。
(ちなみにこのVOXは、みなさんも日頃お使いの携帯電話から、普通にメールに記事を書けば、あらかじめ設定されたメールアドレスに送るだけで、件名が題名に、本文が記事に、添付した画像ファイルが写真としてアップされます。修正や削除は当然Webブラウザからしかできないのですが、新規投稿は普通にメール(MMS)を送る要領で簡単にできてしまうので、お勧めですよ。)
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というわけで、書き始めたばかりの「ねじねじ きぶん」の記事は全てこちらに移動し、過去のブログ「The Diary of a Part-time Refugee.(或る定時制難民の日記)」のうち、面白いと思えるものを抜粋して、時系列に沿って掲載しました。
それでは、ひきつづきよろしくお願いいたします。
P.S. ちなみに、このブログのタイトル部分の写真は、2006年の11月の夕暮れの米国フロリダのタンパ湾で波打ち際に漂う鳥たちを撮ったものです。
「ねじねじ きぶん」というブログを新たに始めることにしました。
実は、過去に某所で「The Diary of a Part-time Refugee.(或る定時制難民の日記)」なる、かなりの毒舌系ブログを書いていましたが、意外にもやめて(記事を全消去して)から好評だったことが分かってびっくりしたことがありました。(面白いと思った記事のみ抜粋して、書いた当時の日時で、時系列に沿ってここに掲載しています。)
さすがに今回はそこまで過激にするつもりはありませんが、ちょっと脳みそをくすぐられるような文章や写真などをアップしていきたいと思います。(でもやっぱり過激かも?)
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「ねじねじ」というのは、我が家での感情表現のひとつでして、ひとさしゆびを伸ばして、娘や妻のせなかやおなかなどに、ねじまわしのように左右に回しながらあちこちつつきまわす(笑)という、おちょくったり、くすぐったりするのに非常に適したボディランゲージでございます。
もうひとつ我が家には、「ののの」という感情表現がありますが(笑)、こちらは純朴な愛情表現でして、同じくひとさしゆびを伸ばして、右回りの「の」の字をあちこち書きまくるといったものです。
「ねじねじ」には少し毒というかシニカルな批評精神が含まれており、「ののの」はまったくの人畜無害だと言えましょう。
で、「ねじねじ」は私みつぐっちが、「ののの」は妻のみちるがそれぞれ担当してブログを書かせていただきます(笑)。
はっきり言って、リコネクションについての記述はあまりないと思いますが、おもしろがっていただければ本望です。
それでは、みなさまよろしくお願いいたします。
ねじねじ。
え〜、突然ですが、「The Diary Of A Part-time Refugee. (或る定時制難民の日記)」は、閉じさせていただくことにいたしました。
ここに書いてた諸々の事共を、一体どれだけの方々に読んでいただいていたのか、どのような悪影響(笑)を与えていたのか、全く見当もつかないのですが、軽い日記のつもりで始めたものが、いつの間にか読むのに難儀する嫌味ったらしい評論文だらけにすり替わってしまいました(笑)。
愚痴ったり、普段出せないことをここではぶちまけたり、なんやらかんやら遠吠えみたいにやりたい放題でしたが、書き散らかしてきた文章を無分別に他人に見せ続けていることが、だんだん心苦しくなってきたので、リセットさせていただきたいと思った次第です。
一部には、悪くない文章もあったと思うので、それはここに残していますが、かなりの文章はもはやこれからの時代にはそぐわないと思ったのです。
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とある昔の友人の一言が忘れられません。
「今時、5年前の自分なんて、もはや別人だね」
この日記かブログか批評集か分からんコーナーは、おおよそ5年間続いたのですが、最近読み返すたびに、5年前の自分どころか、3年前の自分ですら、まるで別人に思えていました。
特に、4〜3年前のおよそ1年余りの自分が一番、別人に思えるくらい違和感がありましたね(笑)。
そんな「自分自身が嫌いだ」とうそぶいていた「別人」の言葉は、「自分が好きになっている」今の自分には、非常に痛く突き刺さります。
現実逃避という意味ではなく、普通に過ごしていても、別人なんだと思えるくらい、自分も世の中も変化し続けているのですね。
まあ、過去のどんな自分も自分なんでそれはそのままでいいんですけど(笑)、まあ、ケジメをつけて、いっぺん卒業させてやんなきゃと思ってね。
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本当にみなさま、わがままな「定時制難民」に今までお付き合いいただきありがとうございました。
無事難民申請が通ったようで、安住の地に定住できるようになったようでございます(笑)。
《写真は5年前に住んでいた古い借家の部屋から撮ったものです。その頃の自分へのオマージュとして...》
今朝、またもやエホバの証人(ものみの塔)の年配の男女が玄関で呼び鈴をならした。私はアマゾンからDVDが届いたと思い、玄関のドアを勢いよく開けてしまった。迂闊だった。
話の切り出しはTV番組の話だった。昨日ビートたけしの番組(TVタックル?)で年金等について議論していたらしい。そこで鼻毛が見事に放射状に開花したおっさんはこう決め付けて言った。
「あなたのような若い人は皆ものすごく不安です。聖書《筆者注:エホバの証人の用いる聖書は通常の旧約・新約聖書とは全く違うもの》にこういう言葉があり
ます。『高貴なものや(中略)を信用してはいけない』 だから国も信頼してはいけないんです。創造主エホバだけを信じて正しく生きなければいけません。日本人はクリスマスや初詣や葬式でそれぞれ無節操に宗教を扱うのが外国から変だと言われているのは聞いたことがありますでしょう?ありますよね? 実は12月25日がキリストの誕生日だと言うのは間違いなんですよ。…(以下略)」
「人々の心を掴むため」と、日々時事問題に関するTV番組や新聞を食い入るようにスキャンする鼻毛のおっさんの様子が目に浮かぶ(笑)。そして得た「唯一絶対の正しい視点からの情報」を得意絶頂の面持ちで押し売りしてくる。
エホバの証人は「キリスト教原理主義」の一形態だと私は感じているが、この頑迷ぶりは共産党員や某日蓮系宗教教団を彷彿とさせるものがある。彼らはまさに文字の世界の囚人である。病的なまでに潔癖で、数学的帰納法の論理で、全てを正邪に分別しつくさないと気が済まないらしい。ただし、その正邪の判断から自分を中途半端に都合のいいように例外にするというのが暗黙のルールらしいが、これでは分裂の相しか生まない。
だから彼らはどこまで行っても「身内の裏切りの歴史」を目の当たりにする羽目になる。
鼻毛についても「厳格」で「潔癖」な彼らの聖書に何も書いてないわけないと思うんだけど(皮肉)。
迷える子羊はどちらかは明白である(笑)。「他人が色眼鏡をかけているように見える」という特殊な色眼鏡を着けていることをすっかり忘れてしまった子羊たち(笑)。
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ここで某所で最近記した見解を書いておく。
いろいろこの世界には裏とか表とかあると言えばあるかもしれないけど、真実を見極めようと、その「裏」に焦点を合わせ過ぎても、それを是認(具現化)するのと大して変わらないと思うので、無視こそはしないけど、頭の片隅に「こういう説もある」という程度に留めておく方が健全かなと感じます。
ただの悲観主義でも、無関心的楽観主義でもなく、それを双方経験しつくして超えたところの全受容的楽観主義(?)がいいのかなと感じています。これは全く私的な意見なので反論ある方も多いでしょうけど、私の主観(想念)通りに日々(私自身の)現実が変わっていくし、自分自身の現実の責任は自分で取るしかないので、現時点でベストと考えているこの観点については、誰がなんと言おうと断固私自身はこれを採用します。
…っていうのが、現時点での私の洞察です(笑)。
こういう意見もあると面白がってくだされば幸いです。
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この言葉を先の二人連れに捧げよう(笑)。今のままじゃ彼らが存命中に理解できるとは到底思えぬが、説教の答礼だ。お役目ごくろうさんなこって。
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帰納法だけで全ての物事を証明するのは愚の骨頂である。
(特に日蓮は弟子達に釈尊の再誕であると帰納的に思い込まれ、自分でも思い込んだ悲しい人物だ。)
例えば数学的帰納法を用いると「全人類はハゲである」ということが完全に理論的に証明されてしまうのだが(笑)、これは非常に示唆的である。
今日、12月5日未明から朝7時頃まで吹き荒れた暴風は瞬間最大風速40m以上に達していたという。道理で、今まで通過した台風以上に強力に感じたわけだ。屋根が吹き飛びそうな突風が続いて、気になって全然眠れやしなかった。
そういうわけで、私が母のおなかの中にいる頃から、実家で毎日(?)流れていた石原裕次郎の名曲「風速四十米」の歌詞をご紹介しよう。(←どういうわけだ?:笑)
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セリフ:「なんだいありゃ? 何? 風速四十メートル? はは。」
風が吹く 吹く やけに吹きゃがると
風に向かって 進みたくなるのさ
俺はゆくぜ 胸が鳴ってる
みんな飛んじゃえ 飛んじゃえ
俺は負けないぜ
セリフ:「おい。風速四十メートルがなんだってんだい。え? ふざけんじゃねえよ。」
風が吹く 吹く やけに吹きゃがると
街に飛び出し 唄いたくなるのさ
俺は唄う 俺が唸ると
風も唸るよ 唄うよ
俺に負けずによ
風が吹く 吹く やけに吹きゃがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのさ
俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それがさだめだよ
セリフ:「馬鹿野郎。風速四十メートルがなんだい。はははは。」
*
実に気持ちのいい歌で、私は大好きなのである(笑)。
こんなふうにスカッと生きたいものだ(笑)。
ははは。
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P.S.
石原裕次郎の歌で私が一番好きなのはデビュー曲の「狂った果実」だ。
南国情緒溢れるアレンジが非常に気持ちいい。今日のような「狂った気象」の暑い日にはとてもよく似合う(笑)。
なんと作詞だけでなく作曲も兄の慎太郎さんなのである。
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夏の陽を浴びて 潮風に揺れる花々よ 草蔭に結び熟れてゆく赤い実よ 夢は遠く白い帆に乗せて 消えてゆく消えてゆく 水のかなたに
人は誹るとも 海の香にむせぶこの想い 今日の日もまた 帰り来ぬ夏の夢 熱きこころ燃え上がる胸に 狂いつゝ熟れてゆく 太陽の実よ
潮の香も匂う 岩かげに交すくち吻も その束の間に 消えゆくと知りながら せめて今宵偽りの恋に 燃え上がり散ってゆく 赤い花の実
なんて変な気候なんだ?
つい2日前まで、真冬だったのに、今日は夏。おまけに「台風」以上の暴風。
明日からまた冬に逆戻り。
最近、「観測史上初」ってのが多いねえ。
暖かいのも好きなので、個人的には楽しい(?)が、ちょっと心配。
こういうときに地震とかが誘発されやすい気がするのです。
数日前の夜中のカラスの異常な鳴き方も気になる。
しかし…、関東が一日沖縄になったような感じ。
海に行きたくなるよ。
やっとというか、ようやくというか、5日ほど前にデジカメを買い換えた。
某アクシデント(笑)により、ダメージを受けた旧デジカメは、よく働いてくれたものの、完全修理には内部部品全交換ということで、数万円かかるという話だった。2年10ヶ月前、一緒にマイアミに行った相棒で、旧式とはいえ愛着もあったが、この際買い換えることにした。(前のものが壊れてから今回買うまでに5ヶ月かかってしまったが:笑)
今回買ったのは、Canon IXY Digital L。最近後継機で画素数や機能の向上したL2が出たが、あえて型落ちのこの機種にしかないパールホワイトの色が欲しかったし、光学ズームもない単焦点レンズだが非常にコンパクトで、何より自分がCanonのデジカメ開発の部署に勤務していた頃に扱った機種の中で、一番気に入った機種だった。個人的には IXY Lという名前よりも開発コードネームの方がしっくりくる(笑)。
自分が勤めていたからというわけではなく、冷静に評価しても、Canonの画質はいい。他メーカー製のように暗かったり、妙に青白かったり、色が薄かったりすることなく、フォトショップで補正する必要はほとんどなしに、デジカメ写真サンプルそのまんまの色鮮やかな画像が撮れる。
職務上、屋外・屋内問わず全く同一条件
(同じ場所)で各メーカーの同等機種をずらーっと並べて、せーので撮って評価するようなことをしていたが、本来は撮った写真が同じ色にならないといけないはずなのにメーカー毎、機種毎に全然違うのだ。
Canonの社内基準からすると他社製で合格するものは殆んどない有様であった。
みんな、そんな比較をする経験がないから(あるわけない:笑)、店頭の写真サンプルに騙されて他メーカーのものでも買ってしまうみたいだが、同時に撮っても冗談じゃなく天気が違うのかというくらい明らかに色が違う。
だから、今迄私が某他社製のデジカメで撮っていた写真は全てフォトショップで加工して、見られるものにしてきた。これからはその必要は殆んど無いわけだ。
そんなわけで今日は、夕方三浦海岸に行って写真を撮ってきた。
そのうちの一枚を上に。これ、サイズ以外何も変えてない。色を全くいじってないのだ。これと同じくらいの鮮やかな色が出せる他社製品はいくつあるかな?
日本郵政公社の新サービス、EXPACK500というのがある。
詰められるものなら、どんなものをどれだけ詰めても重さ関係なく500円だそうだ。直接ポストに入れればいいそうだ。
とは言っても、そんなに大きくない。30kgまでOKだというが、このサイズに30kg詰めるには、ウランでも詰めない限り無理だな(笑)。まさかこれも送れるってか? 郵政公社もしっかり予防線張っとかないと、こういう厄介なものをポストに放り込まれて、知らない職員が被爆や感染する事故が起こらないとも限らないぜ。
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最近、起きがけによくわからん夢を見た。ふと気がつくと日本人だらけのオーケストラでティンパニを叩いていたが、演奏の途中で止められて、外国人の指揮者が俺に向かって「ニュアンスが違うんだよ、それじゃ」って怒鳴っている。ん?知ってる顔だ。確か彼のピアノを聴いたことがあったはず。
その翌朝、電車の中で広告を見る。N響演奏会。新音楽監督にアシュケナージ就任だって? ああ、そういうことか!
しかし何で俺がオケにいて怒鳴られる?(笑)
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今日は防災の日。大正時代の関東大震災の日にちなんでのことだが、幼少時に叔母が女学生時代に大阪にいながら、正午直前立っていられなかったくらい激しく揺れたと話していたのを懐かしく思い出す。備えあれば憂いなしだが、あまりヒステリックに憂うと現実化してしまうからね(笑)。
世紀の発明「空調服」を買はずとも、まず己の精神で以つて涼しく感じてしまへばよいと思ふので、その方法を広く(?)伝授せしめむとここに書き付くる。
というほど大仰なものではない(笑)。
単なるコツである。
環境とそこに居る人間の、自身と環境をどう捉えるかが鍵である。
気持ちのいい季節。人は周りの環境・空気とその人自身の体との分離を特別意識しない。自分の体諸共、環境を楽しむのである。内と外のバランスが取れている状態とでも言おうか。
これが夏になると、いつの間にか熱のこもった自分の体に意識が集中するようになる。(逆に冬になると、いつの間にか自分の体を除外した冷え切った環境に意識が集中するようになる。)
なので、今日のような猛暑の日には、こう(心の中で)つぶやけば良い。
「いやあ、今日は暑いねえ。でも、(暑いと感じられることは)ホント生きてるってことだよなあ。ありがたいねえ。」
そして、自分の体を越えたある程度の広さを持った空間全体を「選んで(認識して)」、しかしある程度その空間に集中して意識し直すこと。
このとき呼吸は腹式に近いもので(しかし楽にできる範囲で)、しかも「吸う-止める-吐く」の非常にゆっくりしたサイクル(1分間に2〜4回程度)で、息を吸うところと止めているところで、ただ頭を空っぽにして空間を感じるとよい。吐くところはただ息を吐くことに集中すべし。
暑いときは嫌でも自分の体を意識させられるので、あえて自分の体を除外した外環境だけを意識するくらいの勢いで。
脳幹が鍛えられている人なら、これを2〜3分ほどやるだけで絶大な効果を経験できる。
これを体得できると、ちょっとした「現象」が起こり出す。
どんなに風のない蒸し暑い日でも、風を感じるようになる。(自分の体の周辺で風が殆んど無くとも、ある程度広い空間では必ず空気は動いているから、その少しの空気の動きが拡大して感じられるようになるという理屈。)
最初は自分だけ風を感じるように思える。でもしばらくすると、自分の周囲に居る誰にも分かるように風が本当に吹き出すのだ。ある意味、これも意図的な意識のシンクロニシティと言えよう。
さらにこれにもコツがあって、自然に対して「いい風吹かせてくれるねえ。ありがとう。」と言ってあげれば、より一層気持ちのいい風が吹いてくれるようになる。
早朝に某寺で読経するのを日課にしていた6年前、京都のある暑い夏の日に会得した。
これはコツさえ掴めば、誰でも簡単にできるようになるものである。
但し、その人自身の感覚で体得が必要なものなので、禅のように、言葉では教えきれないから、知りたい人は直伝でね(笑)。
最近昼休みに、職場近くの横浜インターコンチネンタルホテル脇の通称「ぷかり桟橋」の石のベンチでのんびりするのが、日課になりつつある。
いつもと違って、今日はなんだか不思議な音が聴こえてきた。
ビルの風切音? いや違う。
イベントPA? いや外にスピーカーなど出ていない。
微かに鳴っているというものでなく、意識するとはっきり聴こえるのである。
聴こえてくる音は、C・E・F#・Gである。
コードでいうと、C#11thから7thと9thをomitしたものと解釈できるか?(笑)
ごく稀にクウォータートーン(B♭とBの中間)が混じることもある。
職場に戻るときに原因判明。
このみなとみらい名物の半月状の建物は普通のビルと違い、壁面や窓の清掃に一般的なゴンドラが使えない。なので半月の弧に沿ってレールが敷設してあり、そ の上を特製のゴンドラが昇降するのだが、そのゴンドラのワイヤーをモーターで引っ張るときに、ワイヤーが弦となって、この何とも不思議なコードが響くという按配だった。分かってしまえばなあんだという感じだが、すごく不思議である。コードも微妙だが、音色も金属的なグラスハープのような、現代音楽でよく使 うビブラフォンをチェロの弓で弾く音のような、これまた微妙な音色なのである。
チャンスがあれば、サンプリングして使いたいものだが、清掃のスケジュールが分かりさえすれば…(笑)。