「理解不能」と「思考停止」
前回の記事から、世の中にいろんなことがあったが、あえてブログに書かなかった。
しかし、それらの問題のほとんどは、人間がみな極めて近視眼的な短絡思考しかできなくなっていることから来ていると思えてならない。
・四川大地震における一時的な「親日」感情と、それをすぐに打ち消し、反日に戻そうとする中共政府と人民との駆け引き。
・歴史を無視した、韓国の竹島実効支配と対馬韓国領論という妄想の台頭。
・山本モナさん等への、非常に感情的な処罰感情と嫌悪感を煽りたてる「正義感」「倫理観」を一律的に強制しようという集合無意識的な動き。
みんな見えない「恐怖感」にコントロールされちまってる。
ただ、ひたすらヒステリックであって、人間的な暖かさの欠片もない。
あのさあ、現在未来を「過去の記憶」の再現や脚色だけに生きるのはもうやめようよ。
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最近、いろんな人たちと話していて痛切に感じるのは、「一を聞いて十を知る」というタイプの人は現在ではもはや絶滅寸前だということだ。
「一を聞いて一を知る」人ならまだいい。
だが実際には、かなり割合の人たちが「十を聞いて一すら理解できない」か「一を聞いたのに何故か三の立方根を小数点以下100桁まで憶えて、十を知ったよりも凄いから良いと思い込んでいる」か「一も知らないのに完全開き直っている」か「十を早く知りたい欲に勝てずに一から知ろうともせずに短絡的に(インターネットなどで?)結果だけ知ろうとする」かのような幼稚な状態に陥っているように感じる。
何も、私が「一を聞いて十まで分かる」タイプだと言っているのではない。
しかし、少なくとも五くらいまでは自分の頭で分かろうと努めているつもりだ。
いや、何が悔しいかというと、以前は思わずうーんと唸らされてしまうくらい凄い知恵や洞察を、惜しげも無くさらりと披露してくれる先達が数多居たものだが、今はただ一方通行的に自分の知恵や洞察を披露するばかりで、得るものが全くと言っていいほどないということだ。
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日常的に、表面的で無意味にセンセーショナルな言葉・表現に惑わされて、何が肝心なのかが分からなくされてしまっているようで…。
まるで激辛のコーティングがされたスナック菓子の芋や小麦の炭水化物の微妙な甘みを感じられない様子に似ている。
舌が麻痺して本当の甘さを感じているんだかよくわからないが、しかし甘さも若干あるようにも感じられて…。
(こういうことを書くと、何故か「筆者は辛いものが嫌い」と解釈してしまう人がいつも居ることに呆れてしまうのだが、おそらく、こういう人たちは「一を聞いて三の立方根」タイプなんだろう。言うまでもなく比喩表現なのだが…)
みんな精神的に余裕が無くなったからか、比喩表現を比喩ではなく、反語表現を反語ではなく、皮肉の表現を皮肉ではなく、そのまま真に受ける人たちばかりが出現してしまっている。
そんな状態でマスコミやインターネットの垂れ流す圧倒的物量の雑多な情報を得ても、互いの情報の中に関連性があることを全く発見できず、すべてバラバラの情報を記憶しようと処理するから、脳の能力をあっという間にオーバーフローしまい、肝心なことをみんな取りこぼす。
結果、ほとんど同じことでも状況が少し違うだけで、対処の仕方がわからないから教えてくれと言う。
「自分で考えれば分かるでしょ?」と言っても、逡巡もせずに「ただ分からない」と即答されてしまう。
この「人間総白痴化」は何が原因か? どう対処すべきか?
特に日本人の場合、おそるべき勢いで国語力・語彙力が低下させられている。
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全ての物事に於いて、何が肝心なのか、何が本質なのか、全く見えなくさせられている。
マスコミと口コミの共同作業の結果がこれだよ。
「物事を正しく見なければならない」って思い込みこそが、物事のそのままを見られなくしていることにいいかげん気付いたらどうかな?
自分の中の「正しさ」を絶対視せずに、その判断基準がどの程度のものなのか、冷静に検証してみたらどうなのかな?